東京高等裁判所 昭和43年(ネ)948号 判決 1980年12月16日
控訴人
佐藤泰山
右補助参加人
浅川今朝男
右両名訴訟代理人
猿谷明
被控訴人
小森谷三郎
主文
原判決を次のとおり変更する。
控訴人の境界確定の訴を却下する。
控訴人のその余の請求(損害賠償請求)を棄却する。
訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。
事実
一 求める判決
(一) 控訴人
1 原判決を取消す。
2 別紙物件目録一記載土地(以下、一土地と略称)と同目録二、三記載土地(以下、二、三土地と略称)の境界を別紙図面14・13・20・21・22・24・25・41・26・27の各点を直線で結ぶ線と確定する。
3 被控訴人は控訴人に対し一一万円およびこれに対する昭和三八年三月三日以降右完済まで年五分の割合による金員を支払え。
4 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
(二) 被控訴人
本件控訴を棄却する。
二 主張
(一) 控訴人
「請求原因」
1 一土地は控訴人所有であり、その北西に隣接する二、三土地は被控訴人所有である。
2 控訴人と被控訴人間において一土地と二、三土地の境界につき争いがある(控訴人としては、右境界は一土地と二、三土地の間にある林道の中心点である別紙図面14・13・20・21・22・24・25・41・26・27の各点を直線で結ぶ線である、と主張する。)。
3 よつて一土地と二、三土地の境界の確定を求める。
4 別紙図面4ないし12・30ないし38・40・39・28・4の各点を直線で結ぶ範囲の土地(以下、本件係争地と略称)は一土地の一部に属する。
5 (かりに本件係争地が一土地の一部に属さないとしても)
(1) 補助参加人は昭和一〇年一月一日以降本件係争地を占有したから昭和三〇年一月一日の経過とともに時効により同土地の所有権を取得した。
(2) 昭和三四年一月二〇日、控訴人は本件係争地を補助参加人から買受けた。
6 従つて本件係争地に生育する杉立木は控訴人所有であつたところ、被控訴人は昭和三七年、右杉立木四〇本を控訴人所有と知りつつ、また過失により被控訴人所有と誤信して伐採、処分し、そのため控訴人は右立木価額一一万円と同額の損害を受けた。
7 よつて控訴人は被控訴人に対し右損害賠償金一一万円およびこれに対する右不法行為後である昭和三八年三月三日以降右完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
(二) 被控訴人
「請求原因に対する認否」
その1のうち一土地が控訴人所有、二、三土地が被控訴人所有であることは認めるが、その余(隣接しているとの点)は否認する。一土地と二、三土地間には「沢流れ」(その敷地は国所有)が介在している。
その2のうち控訴人主張の境界線は争う。一土地と二、三土地が隣接しているとすれば、その境界は右沢の西岸線(別紙図面6ないし11の各点を直線で結ぶ線)である。
その4は否認する。
その5の(1)は否認する。その、(2)は不知。
その6のうち被控訴人が昭和三七年、杉立木四〇本を伐採、処分したことは認めるが、その余は否認する。
三 証拠<省略>
理由
一請求原因1のうち一土地が控訴人所有、二、三土地が被控訴人所有であることは当事者間に争いない。
しかし被控訴人は一土地と二、三土地は隣接しておらず、一土地と二、三土地間には「沢流れ」(その敷地は国所有)が介在していると主張し、もしそうであれば一土地とは隣接しない土地の所有者である被控訴人は一土地の境界確定訴訟における当事者適格を有さないことになるから、以下、この点について検討する。
<証拠>によると、一土地および二、三土地が存在する字満行の土地については安中市役所保管の「公図」と称する図面、農林省群馬統計調査事務所備付の図面、補助参加人ら私人所有保管の地図があり、これら地図(以下、地図と総称)には一土地と二、三土地は相隣接(三土地は二土地の北側にありいずれも一土地の北西側に隣接)しているように記載されていて、一土地と二、三土地間に「沢流れ」「水路」「河川」の介在を示す記載はなく、また昭和四五年一一月二七日(当審における現場検証施行日)当時において、別紙図面6ないし11の各点を直線で結ぶ線附近に水流はないことが認められる。
しかし<証拠>によると、
1 一土地と二、三土地間には古くより、これら土地より更に北方に源を発する「沢流れ」(小渓流)が存在し、少量ではあるが常時水が流れ、その西岸の線はおおむね別紙図面14ないし6の各点を直線で結ぶ稲妻線であつたこと、
2 前橋地方法務局安中出張所保管の公図(その保管官署からすると旧土地台帳附属図面であると推測される。以下、公図と略称)には右「沢流れ」が、青色(公図に水路、河川敷を記載する場合には青色が用いられる。)で、二、三土地の北端部分が一土地に最も接近する地点(別紙図面11の地点辺)よりやや北方(同図面14の地点辺)を起点として、二、三土地の南端部分が一土地に最も接近する地点(同図面6の地点辺)より更に南方まで稲妻線状に記載され、一土地はその東南側に、二、三土地はその反対側(北西側)に記載(端的にいえば一土地と二、三土地間に右「沢流れ」が介在するとして記載)されていること、
3 昭和一二年頃、一土地と二、三土地間の右「沢流れ」に二個所の砂防ダム(堰堤。高さ約一メートル、奥行0.7メートル)が設置されたが、昭和二二年、下流のものが台風により崩壊したので、同二四年頃、群馬県はこれを再築したこと、
4 昭和三八年一二月五日(原審における第一回現場検証施行日)当時における右「沢流れ」の幅は約三メートルであり、同四二年一〇月二四日(原審における第三回現場検証施行日)当時においても右砂防ダム下辺に溜り水が散見されたが、同四三年秋、集中豪雨により土砂崩れが生じ、そのため沢は随所で埋没した。しかし右二個の砂防ダムはその後も残存していること、
5 群馬県においては右「沢流れ」を法定外河川(普通河川)として管理しており、その敷地は国所有と目していること、がそれぞれ認められる。
ここで公図と地図を比較対照してみると、一土地と二土地の区画線については公図よりも地図の方が二土地側に線が喰い込むように記載されており、これに伴い二土地は公図よりも地図の方が小さく(面積が狭く)記載されているが、三土地の地形、面積については公図も地図も同じであり、一土地と三土地の区画線についても公図と地図は一致し(但し公図には両土地間に「沢流れ」の青色記載があること前記のとおりである。)、一土地と二土地の区画線は右記のように公図と地図上異なつてはいるが、一土地と二、三土地の区画線を全体的にみれば、いずれにおいてもそれは同形、同長のという稲妻線であることが判る。
ところで控訴人は地図におけるこの稲妻線は「沢流れ」ではなく、その北西方にある林道の中央線を示すものであり、公図の記載は不正確であると考えているようである。
しかし<証拠>によると、昭和四五年一一月二七日施行の当審における現場検証当時においては、林道は幅員約2.20メートルの曲りくねつた道であるが、それは昭和一一年頃、材木搬出のためにつくられたものであり、それ以前には「けもの道」「きこり道」程度の直線道路(別紙図面13と27の地点を直線で結ぶ道路)であつたと認められるから、右林道をもつて一土地と二、三土地の境界を定め、それが地図に記載されたとは考えられない。
このことと<証拠>によると、地図は明治時代に私人が作成、刊行した図面に由来するものと推認されることを考えあわせると、地図よりも、土地台帳制度廃止に伴ない税務官署より法務局に移管された、公図の記載により信をおくのが妥当と思われる。
そうすると前記地図の記載どおりに一土地と二、三土地は隣接しているとすることはできず、ほかにこれを認めるに足りる証拠はなく、かえつて前記公図の記載などからすると、一土地と二、三土地間には法定外河川である「沢流れ」が存在するとみざるをえないことになる。
そして旧河川法(明治二九年法律七一号)三条は河川敷は私権の対象とならない旨規定し、現行河川法(昭和三九年法律一六七号)施行に際し、旧河川法三条により私権の対象とならないとされていた河川敷は国に帰属する旨定められたのであり、(同法施行法四条)、法定外河川敷についてもこれに準じて解するのを相当とするから、前記認定の一土地と二、三土地間に介在する「沢流れ」の敷地は国の所有とみるべく、そうである限り、一土地と二、三土地は隣接しておらず、従つて二、三土地の所有者である被控訴人は一土地の境界確定訴訟における当事者適格を有さず、右訴訟は不適法ということになる。
二次に損害賠償請求の当否について検討する。
(一) 一土地が控訴人所有であることは当事者間に争いない。
控訴人は、本件係争地は一土地の一部に属する、と主張するが(請求原因4)、これを認めるに足りる証拠はなく、かえつて一土地と二、三土地間には国所有である「沢流れ」敷地が介在していると認められること前記のとおりであり、また<証拠>によると、本件係争地は「沢流れ」の北西側(二、三土地側)に存することが認められるから、本件係争地は「沢流れ」の東南側にある一土地ではなく、二、三土地の一部に属するとみるべきである。
請求原因4の控訴人の主張は失当である。
(二) 以下、請求原因5の(1)(補助参加人による本件係争地の時効取得)について検討する。
<証拠>によると、
1 明治二〇年、補助参加人の祖父浅川源太郎は訴外生駒代吉から一土地を買受けたが、同人は本件係争地を一土地の一部と思つていたらしく、同四〇年、杉苗三〇〇本を本件係争地に植付けた。
この源太郎は大正一一年死亡し、その子浅川佐治郎が家督を相続し、同一三年、佐治郎死亡により補助参加人(大正六年生)が家督を相続した。
補助参加人は昭和一一年頃、源太郎が植付けた杉立木を訴外中島新三郎に全部売却し、同人がこれを伐採した。
同一三年頃、補助参加人の依頼でその叔父浅川二郎らは本件係争地に杉苗を植付け、同二〇年頃から約一〇年間、本件係争地の南端一部を訴外藤尾茂一に貸し、同人はそこで芋を栽培していた。
同二八年頃、補助参加人は本件係争地に杉苗約七〇本を補植し、下刈りも随時、随所で行つてきた、
ことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
しかし他方、<証拠>によると、
2 本件二、三土地は大正六年、小森谷治作が中島治平から買受けたものであるが、小森栄喜、小森福寿を経て被控訴人(昭和九年生)が昭和一一年二月一七日、家督相続によりこれを承継取得した。
同一三年、被控訴人方においては二、三土地の杉立木全部を売却伐採し(但し前記1の認定事実からすると、右売却杉立木は本件係争地を除く二、三土地部分に生育のものと考えざるをえない。)、その後(前記1で認定の補助参加人側の杉苗植付時期との前後関係は明らかでない。)、杉苗約三〇〇〇本を植付けた。
被控訴人家においても本件係争地は二、三土地に属すると思つていたので、右植付の際にも植付に従事する者にそのような指示説明がなされた。しかし前記「沢流れ」西岸附近は荒廃していたので杉苗の植付はしなかつたが、西岸附近を除く本件係争地内には植付が行われ、その後、雇人および被控訴人の姉(眞下敏子)らによる下刈が随時、本件係争地内の随所において行われた、
ことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
そして更に<証拠>によると、
3 一土地は東南方から「沢流れ」に向け下り約三〇度の急傾斜があり、古来、雑木林であるのに対し、「沢流れ」から北西方に向つての二、三土地の上り傾斜はよりゆるやか(本件係争地辺で五、六度、林道から北西方部分は一二、三度)であつて、従来から杉の植付が行われており、昭和四一年二月、鑑定人池内藤治が樹齢の鑑定調査をなした時点における本件係争地内および林道の北西方直近辺の杉立木の樹齢は二八、九年であり、被控訴人が昭和三七年に伐採した本件係争地内の杉切株三個の樹齢は二個が二四年、一個が二三年であること(従つて右鑑定調査をなした杉、ひいては本件係争地を含む二、三土地内の杉はほぼ同一、近似時点において植付がされたものと推定される。)
が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右認定事実を前提として請求原因5の(1)について考えると、控訴人主張の補助参加人による本件係争地占有開始時点である昭和一〇年一月一日当時には、浅川源太郎が植付けた杉立木が本件係争地に生育していたのであるから、補助参加人は同時点において本件係争地を占有していたものと推認できる。
しかし右杉立木が伐採された後である昭和一三年以降は補助参加人および被控訴人双方が本件係争地(被控訴人側は「沢流れ」西岸附近には植付をなさなかつたが、その区域は特定できない。)に杉苗の植付をなし、またその後の下刈を行つているので、右植付以降は補助参加人、被控訴人による本件係争地の管理、占有は競合してなされたものとみざるをえない(<証拠>によると、二土地の公簿面積は一五三〇平方メートル、三土地の公簿面積は一三四八平方メートルであることが認められるが、山林についてはその実測面積は公簿面積よりはるかに大である場合が多く、また<証拠>によると、二、三土地の一部である本件係争地(但し林道部分を除く。)の実測面積ですら一六一五平方メートルであることが認められるから、本件係争地を含む二、三土地は右公簿面積をこえる相当広大な山林と推測される。このような広大な山林においては実施日時が競合しない限り、苗の植付、下刈が競合して行われうるものと考えられる。)。
ところで取得時効の要件である占有の継続は、対象物につき客観的に明確な程度に排他的支配状態を続けなければならないのであるから、本件係争地の管理、占有が競合してなされるようになつた昭和一三年以降は、補助参加人による本件係争地についての、取得時効の要件である、占有継続はないものといわざるをえない。
そしてほかに請求原因5の(1)を認めるに足りる証拠はない。
(三) このように請求原因5の(1)が認められない以上、他の争点を検討するまでもなく、損害賠償請求は失当ということになる。
三以上のように本件境界確定訴訟は不適法であるからこれを却下すべきであり、損害賠償請求は失当として棄却すべきであるから、これと異なる原判決を右のとおり変更することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条前段、八九条を適用して主文のとおり判決する。
(吉岡進 手代木進 上杉晴一郎)
物件目録<省略>